普段、人慣れしてないからか、ふとした瞬間に、「何で、人間は、こんなにいるのだ?」と思ってしまうことがある。
こんだけ居れば、何とかなるだろう。任せた。と思う。
かすかに、こんな私で、お役に立つのでしたら…と低姿勢風な横柄な態度に出る。
多分、みんなが居れば、大丈夫だよ。
かと言って、いそいそと、この世を去る予定はなく。何となく、さほど長生きは出来ないんだろうな。と思いつつ、居所を探している。
普段、人慣れしてないからか、ふとした瞬間に、「何で、人間は、こんなにいるのだ?」と思ってしまうことがある。
こんだけ居れば、何とかなるだろう。任せた。と思う。
かすかに、こんな私で、お役に立つのでしたら…と低姿勢風な横柄な態度に出る。
多分、みんなが居れば、大丈夫だよ。
かと言って、いそいそと、この世を去る予定はなく。何となく、さほど長生きは出来ないんだろうな。と思いつつ、居所を探している。
常々、私は、「自分の納得を大事にしている」
何だか分からなくても、「何だか分からないな」と納得出来れば良いのである。
無条件に「そういうもんだよ」「仕方がないよ」と言われると、しばしば、アレルギー的な反応を示す。
まぁ、散々、一人相撲して、「やれやれ、まったく、しょうがないなぁ」で落ち着くこともある。
諦めることは、明らめることだと聞いたことがある。
諦めの早い人は、私より人生経験が豊富なのだろうか?
誰か私に納得がいくように説明してくれ。
外れ値(はずれち、英:outlier )は、統計において他の値から大きく外れた値である。 測定ミス・記録ミス等に起因する異常値とは概念的には異なるが、実用上は区別できないこともある。
この時の「外れ」は、くじの当たり外れとは違う。大多数が元の母集団に属しているのに対し、統計的に有意に、高い確率で、その集団には属さないと認められる値。とでもいうのか。
その値が集団から外れていることを、統計的に論理的に言うためには、残りが集団に属するのが前提になる。
統計的に有意な差を論じるには、ある程度の標本数の多さが必要である。
なので、昨日の私の報告には、何ら統計的な根拠はない。
集めた結果を恣意的に解釈をするのは、統計ではなく、マッサージというらしい。
日本語で「結果を揉む」と言うと、論理的な集合的議論な時もあるし、恣意的操作であることもある。
人がやることは、結果の解釈だけでなく、方法さえ無意識的・意識的に恣意的になることがある。
思いが行動に漏れる。語るに落ちる。
真実などない。確からしいことは、多分、多くの人が、かなりの確率で共有する幸せな誤解なのではないか。