アイデンティティについて考える


どうして、そう、アイデンティティに拘るのかね?

こだわらなくても、自分はそこにあるのではないのかね?

思わず、自分、と書いてしまったけど、「自ずと分かつ」わけだね。
分けるのだから、そこには、なんらかの区別なり差異が発生する
たしか、「自分」って諭吉さんがindividualの訳語としてあてがったんだっけ、あ、それは「個人」だ。
「人格」は"person"の翻訳語らしい。
アイデンティティは比較的新しく日本語になったから、カタカナのままなのじゃないかな。

in+divid+ual 分けられない
person 仮面
iden+t+ity 同一性

日本は欧米と比べると解離性同一性障害、いわゆる多重人格の例は少ないと聞く
意識的に「人格」の確立を図ろうとしないから、自分を構成する要素が、一つの独立した人格となることが少ないのかもしれない。
比較的、個人よりも、集団・組織の一員としての自分「自らの分」「分相応」を重視する文化があるから「個性」を発揮するのを良しとしない文化・慣習があるからかもしれない。

完全に個性的になった場合、それは他人に理解不能になる。統合失調症(かつての精神分裂病)の症状に近いと聞く。

「変わってますね」と言うのを、まろやかに伝える言葉として、お約束の言葉に「ユニークですね」というのがある。
un+ique 唯一
相手はこちらを分かって「ユニーク」と言ってるのだか、分からないから「ユニーク」と言ってるんだか

♪ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン♪

アイデンティティと言う言葉、モチベーションとかモラトリアムと同じくらい最近日本に流入した言葉だと思う。私の感覚だと、ここ30年くらい。
アイデンティティ(自己同一性)という概念は発達心理学者で精神分析家のエリクソンが提唱したものだ。1959年に出版された著書には表記があるそうだ。
モラトリアム(猶予期間)も心理学上はエリクソンの提唱だから同時期であろう。
モチベーションは「動機付け」「やる気」と訳されることもあるが、なんかちょっと違うからカタカナのままなのだろう。私が初めて聞いたのは確か、F1中継だったように思う。何か他のプロスポーツだったかもしれない。たぶん1990年代である。

少し、生物学や心理学をかじれば、変わらない自分というものはないことが分かる。生きていくのは変わることだからである。「ゆく川の流れは絶えずして、しかしてもとの水にあらず」「諸行無常」である。変わっていることを相変わらず自分であると決めるのは、おそらく脳の癖である。脳そのものには故意も悪気もなかったかもしれない。自分があることにしないと、自分があやふやになって存亡の危機になるからであろう。

何故意識が発生したのかは専門家の研究でも定かでないらしいし、世間で話題のAIが学習を重ねていくうちに、いずれ意思を持つのではないかと思うのも当然かもしれない。私たちも赤ん坊の頃の意識は定かでないが生きていたのは間違いない。

世界には「我々」という単語はあっても「私」という単語を持たない民族もあると聞く。英語だって二人称は単数でも複数でもyouである。
他人ではないものが私なのか。私でないものが他人なのか。突如、その境界にATフィールドが発生したのか

私が知覚する世界には二人称の私も、三人称の私もいない。文明の力で、鏡であったり、カメラ、ビデオなどで、自分の姿を見ることは可能であるが、それを私たちは、肉眼で直接見たこともないのに、「これは私だ」と思う。なるほど、器としての身体は、確かにそこに見ることができる。だが、私を私という意識はどこにあるのか。現代は科学的な見方が浸透しているので、意識は脳の機能だと言われている。機能であり構造ではないから、心を単体で取り出すことは出来ない。行動なり文字なり発話なり絵画なり、何かしらの表現を介してしか分からない。介しても分からない。分かる部分は誰にでもある部分だから分かるのである。いわゆる共同幻想や元型に近い。

つまり、アイデンティティは、個人そのものでなく、属性・ラベル・レッテルであるから、当然、分ける。そこに優劣をつけるから差別的になるのである。
頭の良い人は、偏差値的に見れば、ある意味、外れ値であるから、知恵進み障碍というか知能異常と言っても差支えない(差し障りはある)。
カッコイイ人やカワイイ人は、レアであるから、マイノリティである。それが遺伝的に優位であるなら、世界中のブス・ブサイクどころか、いわゆるふつうの人々さえ絶滅しているはずである(乱暴だな)。カッコイイ人やカワイイ人は、実は別の惑星から来たカッコイイ星人やカワイイ星人で、種族を保つために、先住人類と交わり、シレッと生きているのかもしれないのである。そんな御先祖の企みを知らないから、今に生きているカッコイイ人やカワイイ人は自分たちは普通の人類だと思っているのかもしれない。その逆かもしれない。

かなり話が逸れた。アイデンティティという単語がどこかSFチックで、音の響きがコミカルなので、ついそんな想像をしてしまうのだ。

 

少子化について考える

少子化の問題点を、まず、単に近い将来の年金問題だとして、では、もしもそのために子供が増やしたとして、その増えた子供たちが、遠い将来、全員無事に老人になったとしたら、それを支える子供たちはネズミ算的に増えないと年金問題は解決しないのではないか?と乱暴に思ったりして。
子供が増えたら、その子供を育てるためにお金が掛るのだから、親世代の子供の養育・教育の費用の負担が増えるので年金なんて払ってる場合ではないとなるんじゃないか?
とすると
・年金機構が素晴らしい利回りで運用する
・歳を取ったら早目に死ぬ
・歳を取っても自分で稼ぐ
・歳を取る前に死ぬほど貯金する
・歳を取っても支えてくれる仲間を持つ
・子供を持たない人が、せっせとお年寄りと子沢山家庭の負担を軽減するように頑張ってお金納める
・生活のためのコストを極力抑える。デフレ懸念もあるかもだけど、不景気と仲良くする。
とかしないと、遠からず破綻するのではないか?

国力としての生産力と言うのなら、別に人力で何もかもやってるわけじゃないのだから、AIなりロボットなり使う手もあるだろうし。

子供の社会性がと言うなら、それは少子化の問題ではない。一人っ子が大勢集まった社会だってありだし、大家族の人でなければ社会的になれないのなら、既に終わってる。

ジェンダーについて考える

先日、アメリカでXジェンダーを自認する学生が、ナイフを持って「殺せ」とか言いながら警官に近付き、射殺されたというニュースを、はてなブックマークで取り上げたら、思いの外、大勢の方から、はてなスターをいただいた。

記事を見る限り、その人のジェンダーアイデンティティと、その事件は直接的な因果はないように思える。

いわゆるLGBT(Q or X)というカテゴリーを認めることで、本人の自認や社会的処遇が安定を目指す。多少、今はデモンストレーションかキャンペーンなのか?というきらいはある。活動に熱心な人の方が、そういうアイデンティティやスタンスを確固として持っているのかと思ったが、よく考えてる分、揺らぐところもあるのかもしれない。

ただ、行動だけから見る限り、精神的に不安定な人が、正常とは言い難い発言や行動をしたように見えるので(もちろん、警官が射殺という行為を取ったと云うのは、別に議論される問題ではある)ジェンダーアイデンティティと精神の安定に、少なからず因果はあったのだろうが、この事件の本筋ではないと思う。

前置きが長くなった。


純然と身体的性別はある。人間は両性生殖の動物であるからだ。その限り(インターセックスな人もいるのだろうが)において、可能であるならば、それに沿ったジェンダーアイデンティティを持っていた方が、生きやすいのだろうな。と思う。

それに多くの人、敢えて言うなら、マジョリティの人々は恙無く暮らしているのだろう。

だけど、それにしても、そこで安易に性別を優劣に結び付けてはいけないし。社会的文化的なバイアスによる圧力があってもいけない。

違いをただ認めさえすれば良いのだ。

ただ、往々にして、マッチョでマスキュリンな男性や、フェミニンでレディライクな女性の、一部の「保守的」な人は、その存在を認めず忌み嫌う人が少なからずいる。

理解ある風な人が、たまに、トイレを共用にしたり、お風呂を混浴にしたり、服装をユニセックスにしようとする、あるいは厳格にいわゆる男女とそれ以外に分けようとする。それは、世界制服計画であって、ジェンダーフリーではないし、ジェンダーアイデンティティへの寛容でもない。

二択の方が簡単なのは分かるが、クイズでも試験でもないのだ。男らしい男は、何故その行為や思考を男らしいと思えるのか。女らしい女もまた。経験上、その手の多くの人は「だって、そういうものでしょ。それがふつうでしょ」で済ます方が多い。残念である。

目線の先

よく社会のマナー的に「人の目を見て話せ」的なことを言われる。

私自身は、そもそも人と話すのは苦手だし、そんなにずっと人を見続けるのは失礼なような、にらめっこしていて笑いそうになるような気がするので、たまにチラ見する程度にしている。

仕事柄、「ヲタク的な」職場というか、PCやタブレットを操作しながら会話する人が多いので、結構、目線を合わさずに話す人は周囲にも多い。

そんな人たちでも、スマホを弄りながらというのはマナー違反と捉える人が多いようだ。

PC操作しながら、分かって気を使ってるのか、「話続けて」とか「聞いてますよ」という人もいる。

話しかけた最初くらいは、こちらに顔を向けてくれてもいいのではないか?と思う時もある。

しかし、目線だけこちらにジロリと流し目されても怖い。

質問に答える時に左上(こちらから見ると右上)を見る人は記憶をベースに話していて、逆に右上を見る人は想像で話しているとか。

猫は目線だけそちらにやることはない。必ず首を回して顔をこちらに向ける。一旦「ん?何?」って感じでこちらを向いたあとに「ふ〜ん」って感じで目線を逸らすというか顔を背けることも多いが、完全に視界の外に外れない限りは、ぬこたちは横目で見ている。横目と言っても流し目ではない。視界の端で捉えている。その証拠に、視界の中で何か異常事態が発生すると「え!だから、何?」って感じで振り返る。

薄暗いと特に、まるで黒目がちな子のつぶらな瞳のような目をしているように見える猫の目であるが、あの黒いのは黒目ではなくて瞳孔である。瞳孔だと思ってみると、かわいい猫だったはずが、おそろしく見えたりする。

瞳孔が開いているのが可愛く見えるのは、それが興奮や興味を表すからかもしれない。


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近所のコンビニ勢力図

私のうちは、JR南武線武蔵新城武蔵溝ノ口、少し歩いて武蔵中原、元気なら武蔵小杉まで歩ける。東急田園都市線だと高津・溝の口二子新地が近く、少し歩けば、二子玉川梶が谷も30分くらいで歩ける、散歩者にはありがたい立地である。なお、周囲からはどの駅からも遠いと評判が悪い。

私のうちの最寄りのコンビニはセブンイレブンだが、街を歩いていて、矢鱈とファミマがある気がする。特に、うちから溝の口まで歩いてると、ファミマのハシゴしてるのか?という気になる。

ちょっと調べてみると
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左上がセブン、右上がファミマ、左下がローソンである。なお、右下は、うちから近い20件のコンビニ分布であるが、第三京浜の川崎インターのそばのサンクスは既にファミマに看板が変わってるし、上小田中のサークルKは9月末で閉店と聞く。

ざっくり新城からうちを経由して溝口に行く付近の内堀がファミマ。外堀がセブン。ローソンは外様である。

歩いて30分くらいのエリアにファミマが10軒くらいある勘定だから3分歩けばファミマに当たるのだ。地図の中では14軒ファミマがある。

果たして、同じオーナーさんの系列なのかは知らないが、この過密地帯でのフランチャイズ経営は大変だなぁと思う。ファミマ本体は、どの店で売れようが、このエリアでの売上になるのだから

ジェンダーフリーについて考えた

最近、セクシャルマイノリティとかジェンダーフリーという言葉を、しばしば見かけるのだけど、ぼんやりというか、ごっちゃに使われてる気がするので考えてみた。
他にもあるかもしれないけれど、ちょっと考えても、下記のパラメーターがある。
身体的性別
自覚的性別
服装的指向
恋愛的指向
性的指向
それぞれに、無・男・女・両があるとすると、二進法的には、一つのパラメーターが2ビットの情報を持つので、併せると、これだけでも10ビットで表せるモードがあると考えられる。つまり2の10乗であるから、え〜と…1024通りあることになる。
まあ、およそ、ほとんどの人(敢えて言うなら、セクシャルマジョリティ)の人は、身体的自覚的性別は一致しており、服装はそれに準じ、恋愛的・性的指向については、異性が対象になることになっている。
多少のズレがあっても、躾けとか教育とか文化で抑圧しているのだろう。
ジェンダーフリーという考え方は、語る人によって、多少、趣きも温度も違うのだけど、こういう枠組みというか足枷なり色眼鏡のようなものを外そうという思想なのだと思うのだ。
謎に博愛なフリーセックスじゃ、怪しい宗教みたいになってしまうし、お風呂はなんでも混浴が良い訳はないし、通勤電車の女性専用車両に異を唱えるものでもない。
その車両にレズな痴女の方が居たらどうするのだ?という思考実験は容易に想像がつくがレアなのだろう。普通車両でホモな痴漢に遭遇したことないし。
というか、私が思うに、満員通勤電車に乗れる人はマゾか不感症である。その割に乗り降りの瞬間はサディスティックであると思う。
話が逸れかかっている。フリーとは自由だからと何でもありというわけじゃなくて、枠に捕らわれない、枠で捉えないということではないか?勿論、フレームはモノを捉える上で有効な手法であるし、捉えて区別するからこその枠であるのは自明である。
たまに、茶化して「誰でも好きになっちゃう人でしょ」的に言う方がいるが、色んな人がいるのを認めることと、誰でも好きになることは違う。
少し考えてみたら分かる。好きでもない人に言い寄られるのは、ほぼおおよそ(ホントに誰でも好きになれちゃう人以外)の人々は嫌なはずである。

声が聴こえる

女三人寄ればかしましいと云うのは漢字「姦しい」の成り立ちの駄洒落だったのかもしれないが、今どき、セクハラだと訴えられるかもしれない。たぶん、女性の方が声が高いし張りがあるから通りやすいのであろう。

雑踏の中でなんでか、気に掛けている話題が耳に入って聴き取れたりするのをカクテルパーティー効果と言うらしい。

幻聴が聴こえる人は、おそらく、自分の心を外在化してしまう癖があるのだろう。

ふつうに会話したとしても、相手がホントは何を思ってるか分かったものではない。

人と人との間は幸せな勘違いか、頼りない共同幻想で出来てるのだろう。

私は盗み聞きの趣味とか、聴き耳を立ててる訳ではないが、周囲の人の会話が気になって仕方がない時がある。

当のご本人が身の回りの事件を実況・解説兼任で話してくれているので、面白いことも多いが、私には関係ないことなのに腹立たしくなる時がある。

特に食事や宴会の席で男が三人寄ってるのは、かなりの確率で聞くに耐えない。ほとんどが不満か自慢だからである。

それでも、そこから社会が良い方向に徐々にでも向かえば良いなぁ。少なくとも、この人たちがストレスを発散して、この後、周りの人に優しくなれば良いなぁ。と、淡い希望を捨て切れずにいる。

絶望が死に至る病であるなら、希望は生きるための劇薬かもしれない。ユーモア。