セクハラについて考える

何処ぞの男性マネージャーが、部下の派遣社員の女性を飲み会に誘い、何度か来てくれたから好意があると思って、膝に手を置いたり、迫ったりして懲戒処分という話題があった。

それを聞いて「何度も飲みに誘われて行ったら、誤解されても仕方がない。その男性もある意味可哀想」という意見の人がいて、あらら。
いや、実際の事件の詳細な背景や経緯は知らないのだけど…
思考実験として、例えば、中年マネージャーがゲイとして、部下の若手男性社員に、同様な行為に及んだと考えれば、みんな、容易にセクハラだと言うのではないか?
若手男子は上司の仕事振りを尊敬していたかもしれないとしても、その男子はゲイではないし、上司に対する好意は、良くて敬意、もしくは上司への儀礼であって、いわゆる恋愛感情的な好意は一切ないのだとしたら。
それでも、まだ、多様性とかダイバーシティとか言う人でも、私の喩えは、「ゲイを気持ち悪いものとしていて不適切だ」というお門違いな批判をされるかもしれない。
管理部門からの戒めのお達しが「40,50の中年男性に、そんな魅力はありません」だったと、半ば笑い話のように伝えられたが、妙な目くじらを立てるなら、それも中年男子差別である。
雑な言い方をすると、思考も手順も不適切だったのであろであろう。

生産性向上について考える


最近、「生産性向上」という単語がよく使われます。言葉からすると、何かの効率だと思われます。効率なので何かを何かで割ったはずで、何打数何安打な打率みたいのとか、単位時間あたりの生産高とか、コストパフォーマンスとか、売り上げに対する利益率とかとか…
「効率重視」という人は、大概、打率とか時間あたり生産高を言っているようです。
同じ時間かけて、質の高いものを作ることは、あまり問われてない気がします。「品質向上」といっても大概は大量生産の際の不良率を下げる話が多い気がします。
取り敢えず、私は8時間定時勤務の月給制の人です。単純に生産性向上をしても、早く帰れるわけでも、給料が上がるわけでもないので、8時間の基本は待機任務として、「いざ!」って時に良いパフォーマンスを出せれば良いな程度に最近思います。

褒められたと名誉だったり、自己満足をやり甲斐にはできません。

そういう瞬間が何度でもあれば、打席数も増えるので打率が悪くてもヒットが増えるのではないかと思うのです。とすると、失敗のコストを安くするのも大事ですね。ま、早めに失敗するのが吉。もしくは、失敗と言わず「うまく行かないということが分かった。成果があった」と言い張るか。そか、試行錯誤という単語が、そもそも自虐的なんだな。「試す」とか「誤る」とか。

なんで、みんな、そんなに、成功を求め、失敗を恐れるのか。成功を目指すのはよいけど、結果はやった後に、自ずとついてくるものでしょ。

字幕の見方 視覚と聴覚と運動と言語について

私は海外の映画は、基本的に字幕版で観る。
他の言語よりも圧倒的に日本語の方が得意なので、吹替版の方が台詞がすんなり入ってきそうではあるが、それは翻訳だからであって、元の台詞ではない。
私は字幕版で見る時も、字幕は視界の端の方で捉えるようにして、凝視しないことにしている。日本語の文字だと凝視しなくても分かる。
しばしば「字幕を追うのに忙しくてストーリーが入ってこない。観てて疲れる」という方がいるのだが、会話劇でなければ、おおよそ観てればストーリーは分かるし、一字一句台詞を追わなくても良い。
上のような意見の方は、おそらく、「字幕を読む」人なのだと思う。さらに、黙読する時も、「心の中で発話」している可能性が高い。
逆に、例えば、英語のフレーズを想起しようとする時に、「無音或いは小声で口元が動く人」と「宙に指先でスペルを書き始める人」がいる。
日本語の文字が表意性が高いので、文章を見たら、おおよそ意味が分かる。表音文字系の方は、単語なりセンテンスの塊を捉えないと意味を掴めない。
たぶん、中国の人は、漢字の意味性があるので、文章を見れば分かるのだけど、話して伝えるのが難しいから発音に頼るのだろう。
話し言葉と書き言葉が、同じ意味を持つのは、極めて御約束的でかつ高度な脳内情報処理だと思われる。誰が今見た字をそう発音すると決めたというのだ。そう思うと、言葉が通じる。特に文字で伝わるというのは、随分特殊な訓練のたまものであろう。
映画の字幕の話に戻ると。私はDVDやBlu-rayで見る時、字幕を英語版にすることが多い。字幕は見れば分かるので、台詞の音声が耳から入りやすくなる。意味は字幕で取れたから、耳は音に専念できてるか、そう思って聞いてるからだろう。
こんな話をすると「英語の字幕なんて、目が追いつかない」としばしば言われるのだが、おそらく、そういう人の多くは、黙読でなくて読んでいるのである。
リーディングは視覚的な行為であり、リスニングは聴覚的な行為である。視覚には時間的感覚はない。写真のようなものだ。聴覚は特性上、時間とは切り離せない。だから読むのは聴くより早いはずである。
だが、黙読でなくて、無音なり小声なりで「音読する」人は少し事情が違う。「話す」ための脳の運動野を使ってしまったり、実際に口周りの筋肉を使ってしまったりする。運動は聴覚よりもさらに時間を要する。
書き言葉を読むのより書くことの方が脳内処理や筋肉への神経刺激の伝達とかで忙しいはずである。だから手書きよりタイピングやワープロの方が速かったりする。
カラオケの歌詞の字幕は時間順に追うような構造になっている。映画の字幕は瞬間である。カラオケの字幕は発声が前提である。あぁ、みんなカラオケ慣れし過ぎてるのだな。と一人で納得してみる。

アイデンティティについて考える


どうして、そう、アイデンティティに拘るのかね?

こだわらなくても、自分はそこにあるのではないのかね?

思わず、自分、と書いてしまったけど、「自ずと分かつ」わけだね。
分けるのだから、そこには、なんらかの区別なり差異が発生する
たしか、「自分」って諭吉さんがindividualの訳語としてあてがったんだっけ、あ、それは「個人」だ。
「人格」は"person"の翻訳語らしい。
アイデンティティは比較的新しく日本語になったから、カタカナのままなのじゃないかな。

in+divid+ual 分けられない
person 仮面
iden+t+ity 同一性

日本は欧米と比べると解離性同一性障害、いわゆる多重人格の例は少ないと聞く
意識的に「人格」の確立を図ろうとしないから、自分を構成する要素が、一つの独立した人格となることが少ないのかもしれない。
比較的、個人よりも、集団・組織の一員としての自分「自らの分」「分相応」を重視する文化があるから「個性」を発揮するのを良しとしない文化・慣習があるからかもしれない。

完全に個性的になった場合、それは他人に理解不能になる。統合失調症(かつての精神分裂病)の症状に近いと聞く。

「変わってますね」と言うのを、まろやかに伝える言葉として、お約束の言葉に「ユニークですね」というのがある。
un+ique 唯一
相手はこちらを分かって「ユニーク」と言ってるのだか、分からないから「ユニーク」と言ってるんだか

♪ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン♪

アイデンティティと言う言葉、モチベーションとかモラトリアムと同じくらい最近日本に流入した言葉だと思う。私の感覚だと、ここ30年くらい。
アイデンティティ(自己同一性)という概念は発達心理学者で精神分析家のエリクソンが提唱したものだ。1959年に出版された著書には表記があるそうだ。
モラトリアム(猶予期間)も心理学上はエリクソンの提唱だから同時期であろう。
モチベーションは「動機付け」「やる気」と訳されることもあるが、なんかちょっと違うからカタカナのままなのだろう。私が初めて聞いたのは確か、F1中継だったように思う。何か他のプロスポーツだったかもしれない。たぶん1990年代である。

少し、生物学や心理学をかじれば、変わらない自分というものはないことが分かる。生きていくのは変わることだからである。「ゆく川の流れは絶えずして、しかしてもとの水にあらず」「諸行無常」である。変わっていることを相変わらず自分であると決めるのは、おそらく脳の癖である。脳そのものには故意も悪気もなかったかもしれない。自分があることにしないと、自分があやふやになって存亡の危機になるからであろう。

何故意識が発生したのかは専門家の研究でも定かでないらしいし、世間で話題のAIが学習を重ねていくうちに、いずれ意思を持つのではないかと思うのも当然かもしれない。私たちも赤ん坊の頃の意識は定かでないが生きていたのは間違いない。

世界には「我々」という単語はあっても「私」という単語を持たない民族もあると聞く。英語だって二人称は単数でも複数でもyouである。
他人ではないものが私なのか。私でないものが他人なのか。突如、その境界にATフィールドが発生したのか

私が知覚する世界には二人称の私も、三人称の私もいない。文明の力で、鏡であったり、カメラ、ビデオなどで、自分の姿を見ることは可能であるが、それを私たちは、肉眼で直接見たこともないのに、「これは私だ」と思う。なるほど、器としての身体は、確かにそこに見ることができる。だが、私を私という意識はどこにあるのか。現代は科学的な見方が浸透しているので、意識は脳の機能だと言われている。機能であり構造ではないから、心を単体で取り出すことは出来ない。行動なり文字なり発話なり絵画なり、何かしらの表現を介してしか分からない。介しても分からない。分かる部分は誰にでもある部分だから分かるのである。いわゆる共同幻想や元型に近い。

つまり、アイデンティティは、個人そのものでなく、属性・ラベル・レッテルであるから、当然、分ける。そこに優劣をつけるから差別的になるのである。
頭の良い人は、偏差値的に見れば、ある意味、外れ値であるから、知恵進み障碍というか知能異常と言っても差支えない(差し障りはある)。
カッコイイ人やカワイイ人は、レアであるから、マイノリティである。それが遺伝的に優位であるなら、世界中のブス・ブサイクどころか、いわゆるふつうの人々さえ絶滅しているはずである(乱暴だな)。カッコイイ人やカワイイ人は、実は別の惑星から来たカッコイイ星人やカワイイ星人で、種族を保つために、先住人類と交わり、シレッと生きているのかもしれないのである。そんな御先祖の企みを知らないから、今に生きているカッコイイ人やカワイイ人は自分たちは普通の人類だと思っているのかもしれない。その逆かもしれない。

かなり話が逸れた。アイデンティティという単語がどこかSFチックで、音の響きがコミカルなので、ついそんな想像をしてしまうのだ。

 

少子化について考える

少子化の問題点を、まず、単に近い将来の年金問題だとして、では、もしもそのために子供が増やしたとして、その増えた子供たちが、遠い将来、全員無事に老人になったとしたら、それを支える子供たちはネズミ算的に増えないと年金問題は解決しないのではないか?と乱暴に思ったりして。
子供が増えたら、その子供を育てるためにお金が掛るのだから、親世代の子供の養育・教育の費用の負担が増えるので年金なんて払ってる場合ではないとなるんじゃないか?
とすると
・年金機構が素晴らしい利回りで運用する
・歳を取ったら早目に死ぬ
・歳を取っても自分で稼ぐ
・歳を取る前に死ぬほど貯金する
・歳を取っても支えてくれる仲間を持つ
・子供を持たない人が、せっせとお年寄りと子沢山家庭の負担を軽減するように頑張ってお金納める
・生活のためのコストを極力抑える。デフレ懸念もあるかもだけど、不景気と仲良くする。
とかしないと、遠からず破綻するのではないか?

国力としての生産力と言うのなら、別に人力で何もかもやってるわけじゃないのだから、AIなりロボットなり使う手もあるだろうし。

子供の社会性がと言うなら、それは少子化の問題ではない。一人っ子が大勢集まった社会だってありだし、大家族の人でなければ社会的になれないのなら、既に終わってる。

ジェンダーについて考える

先日、アメリカでXジェンダーを自認する学生が、ナイフを持って「殺せ」とか言いながら警官に近付き、射殺されたというニュースを、はてなブックマークで取り上げたら、思いの外、大勢の方から、はてなスターをいただいた。

記事を見る限り、その人のジェンダーアイデンティティと、その事件は直接的な因果はないように思える。

いわゆるLGBT(Q or X)というカテゴリーを認めることで、本人の自認や社会的処遇が安定を目指す。多少、今はデモンストレーションかキャンペーンなのか?というきらいはある。活動に熱心な人の方が、そういうアイデンティティやスタンスを確固として持っているのかと思ったが、よく考えてる分、揺らぐところもあるのかもしれない。

ただ、行動だけから見る限り、精神的に不安定な人が、正常とは言い難い発言や行動をしたように見えるので(もちろん、警官が射殺という行為を取ったと云うのは、別に議論される問題ではある)ジェンダーアイデンティティと精神の安定に、少なからず因果はあったのだろうが、この事件の本筋ではないと思う。

前置きが長くなった。


純然と身体的性別はある。人間は両性生殖の動物であるからだ。その限り(インターセックスな人もいるのだろうが)において、可能であるならば、それに沿ったジェンダーアイデンティティを持っていた方が、生きやすいのだろうな。と思う。

それに多くの人、敢えて言うなら、マジョリティの人々は恙無く暮らしているのだろう。

だけど、それにしても、そこで安易に性別を優劣に結び付けてはいけないし。社会的文化的なバイアスによる圧力があってもいけない。

違いをただ認めさえすれば良いのだ。

ただ、往々にして、マッチョでマスキュリンな男性や、フェミニンでレディライクな女性の、一部の「保守的」な人は、その存在を認めず忌み嫌う人が少なからずいる。

理解ある風な人が、たまに、トイレを共用にしたり、お風呂を混浴にしたり、服装をユニセックスにしようとする、あるいは厳格にいわゆる男女とそれ以外に分けようとする。それは、世界制服計画であって、ジェンダーフリーではないし、ジェンダーアイデンティティへの寛容でもない。

二択の方が簡単なのは分かるが、クイズでも試験でもないのだ。男らしい男は、何故その行為や思考を男らしいと思えるのか。女らしい女もまた。経験上、その手の多くの人は「だって、そういうものでしょ。それがふつうでしょ」で済ます方が多い。残念である。

目線の先

よく社会のマナー的に「人の目を見て話せ」的なことを言われる。

私自身は、そもそも人と話すのは苦手だし、そんなにずっと人を見続けるのは失礼なような、にらめっこしていて笑いそうになるような気がするので、たまにチラ見する程度にしている。

仕事柄、「ヲタク的な」職場というか、PCやタブレットを操作しながら会話する人が多いので、結構、目線を合わさずに話す人は周囲にも多い。

そんな人たちでも、スマホを弄りながらというのはマナー違反と捉える人が多いようだ。

PC操作しながら、分かって気を使ってるのか、「話続けて」とか「聞いてますよ」という人もいる。

話しかけた最初くらいは、こちらに顔を向けてくれてもいいのではないか?と思う時もある。

しかし、目線だけこちらにジロリと流し目されても怖い。

質問に答える時に左上(こちらから見ると右上)を見る人は記憶をベースに話していて、逆に右上を見る人は想像で話しているとか。

猫は目線だけそちらにやることはない。必ず首を回して顔をこちらに向ける。一旦「ん?何?」って感じでこちらを向いたあとに「ふ〜ん」って感じで目線を逸らすというか顔を背けることも多いが、完全に視界の外に外れない限りは、ぬこたちは横目で見ている。横目と言っても流し目ではない。視界の端で捉えている。その証拠に、視界の中で何か異常事態が発生すると「え!だから、何?」って感じで振り返る。

薄暗いと特に、まるで黒目がちな子のつぶらな瞳のような目をしているように見える猫の目であるが、あの黒いのは黒目ではなくて瞳孔である。瞳孔だと思ってみると、かわいい猫だったはずが、おそろしく見えたりする。

瞳孔が開いているのが可愛く見えるのは、それが興奮や興味を表すからかもしれない。


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