やりがい。或いはインセンティブとかモチベーションとかコンピテンシーとか


インセンティブとモチベーションとコンピテンシーについて考える

うちの職場に目標管理成果評価制度が導入されたのは、もう十何年も前の話だ。
ただでさえ、横文字多用する人の言い分は、生理的嫌悪に近いものを持っているので、その制度の説明に「インセンティブ」という言葉を使われた時は、心の中で「はぁ?」と大声を上げたものである。ちなみに「コンピテンシー」も好きな言葉ではない。

コンピテンシーというのは、平たく言うと「やる気の見える行動を取っているか」ということらしい。そのための能力をコンピタンスというそうな。私は自分の担当業務に対しては積極的に主体的に取り組んでいると自負しているが、どうやら、このコンピなんとかには、まず「よき社会人」的な項目があるらしく、しばしば体調不良になったりして、休んだり遅刻したりする私の評価は低い。昨今の働き方改革とか言うので、残業時間も減ったし、体調も落ち着いてきたし、幸いにして、うちの職場はスーツにネクタイ必須ではないので、そろそろ私のコンピ評価も改善すると思うのだけど、いかんせん、会社人生の余命に限りがあるような気がする。手遅れである。

インセンティブ。これも極めて大雑把に言うと「報酬」である。褒められると伸びる良い子ではないので、おおよそ、この報酬というのはお金のことである。昨今、昇給は見込めないから、一番見えるのは賞与、いわゆる、ボーナスだ。

プロフェッショナルな年俸制の人なら、前年の評価を元に交渉をして、年俸アップを勝ち取るのであろうが、こちらは、なにをやってくれているか、いまいちよくわからない組合に保護されているらしいサラリーマンである。だから年間のボーナスは4か月分だとなると、おおよそ、月給の基本分の2か月分は夏と冬には守られていることになる。基本分を2か月分もらってもありがたみはないのだ。問題は成果分とかいうインセンティブである

まだ、支給はされていないが、どうやら半年前より評価はあがったらしい。ただ、この成果分とやらの予算は、事業成績に連動しているらしく、評価が高くなっても、会社が儲けていなければ、実質減額である。当たり前と言えば当たり前なんだが、前より頑張ったねと言われてもらえる小遣いが減ってる現象である。子どもでもやる気を無くすというものである。

行動心理学の実験で、報酬が多いグループより、少ないグループの方が「やりがい」を見出す傾向がある。というのがある。あれはきっと、「やる気」のあるなしの問題でなくて、「やる」ことは決まっており、報酬が少ないのであれば「やりがい」でなんとかしようという意識が働く傾向があるということで、報酬が高ければ報酬がやる気に直結するから「やりがい」を求めなくても問題ないということであろう。

そう思うと、最近の私は長らくの体調不良と仕事に対する納得性の低さでテロリーマン活動をしていたせいで、すっかり社内での職級というか職務グレードが低くなっているので、今となっては実質、仕事の質の割には、割安にサービスを会社に提供している(つまり、安月給である)。そんな私は、実は変わらず、自分の納得性を「やりがい」としている。行動が潜伏したテロリーマンになり、静かなる改革を進める野心家だからである

また別の行動心理学では、こういうものがある。同じような難度の作業に対して、報酬を大きくしていったところ、途中までは、やる気(モチベーション)が上昇するが、途中からは報酬に対するプレッシャーのようなもので、やる気が落ちるらしい。世間には、飴と鞭という言葉があるが、例えば刺激などで罰則を与える実験を動物ですると、刺激が弱いうちは「どうでもいい」(とは動物は言わないけど)とNG行動(罪)を避けようとしないが、罰則を強くするとNG行動を避けようとするそうだ。人間くらい小賢しくなると「脱法行為」に精を出すのかもしれない。さらに罰則を強くするとNGを避けるどころか、ふつうの行動さえしなくなるらしい。

業績のいい経営者や、成績のいいプロ選手などは、高い報酬を貰って、より良い成果に向かって、着実に努力するではないか、それは、彼らが現在の評価に納得しており、これからも評価されることを約束されているからであろう。当然、ハイリスクハイリターンであるから報酬0の可能性もある。

「一番、確実な賭けは真面目に働くことだ」という言葉がある。ローリスクローリタンで恙無く暮らして穏やかな一生を送るというのを第一の価値観としている人の言い分であろう。これを一儲けした人が言うといまいち説得力がないが、いわゆる「ふつう」に生を終える時に「悪くない人生だった」というのは、やり逃げでズルいので日々是好日。何があっても大丈夫。これは私個人の価値観である。

 

 

よくなくない?


「よくなくない?」

「ブギーバックかよ!」「スチャダラかよ!」という声が聞こえる気がするが…
私は「悪くはないよね。てか、いいよね」的なニュアンスで捉えていたように思う。実際に使った記憶はない。

大学生の時に、「それで問題ないんじゃないでしょうか」と言ったら、中国からの留学生に「それは、『問題ある』ですか?『問題ない』ですか?」と問いただされた記憶がある。

「ない」=否定でなくて、「なかかろうか」的な推測の意味合いとでも言えばよくなくない?
私は言語学の専門家ではない。

似たような言葉で「ない」が含まれているが否定ではなさそうな言葉がなくはない。

『「とんでもございません」という言葉はありません』

御丁寧に言い換えたつもりなのかもしれないが、「とんでもない」は一つの言葉なので、敢えて言うなら「とんでもないことでございます」になる。
(「とんでもない」の語源については実は知らない)

たとえば…

「もったいない」も、「もったいある」とは言わないから、もったいございませんとは言えない。「もったいをつける」とは言う。「勿体」ってなんだ?
「こころもとない」も「こころもとある」とは言わない。「心許」って?
「めっそうもない」も「めっそうもある」とは言わない。「滅相」て、なんかかなり悲惨な字面だ。
「めんぼくない」も「めんぼくある」とは言わない。「面目を保つ」とは言う。
「なんでもない」の反対のつもりで「なんでもある」と言ってしまっては、その反対は「なんにもない」である。
「みもふたもない」とは言うが、「みもふたもある」という言い方は、それこそ「身も蓋もない」
「だらしない」と言うと、あからさまに、はなはだしく、乱れてる感があるが、「だらしがある」とは言わない。
「しどけない」は、だらしないのか?アンニュイなのか分からないが「しどけある」とは言わない。

「ありえる」と「なくはない」だと、どちらが可能性が高いであろうか?「ありえる」の方が高い気がする

あれ、チャウチャウちゃう?
え?チャウチャウちゃうんちゃう?

 

うちから徒歩で


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特定の時間で何処まで行けるのかというのを地図上にプロットしたものをアイソクローンマップ「等時間地図」というそうです。

休みの日は歩け歩け活動をするアルキストとしては気になるので

うちから歩いて

 

左上:30分
30分では多摩川を渡れない。等々力緑地公園はギリギリ届かない
田園都市線梶が谷二子新地

南武線武蔵溝ノ口武蔵中原

 

右上:1時間
田園都市線:宮崎台~用賀

南武線:久地~武蔵小杉

東横線:元住吉~新丸子
砧公園や多摩川浅間神社はギリギリ

 

左下:2時間
小田急線:読売ランド前~世田谷代田

田園都市線:江田~三軒茶屋

南武線:中野島~尻手

東横線菊名~学芸大学
新横浜までも行けるのね

 

右下:3時間
稲城三鷹・新宿・渋谷・品川

 

 

4Kとか8Kとか

動画の圧縮というかコーデックって、どういう理屈なのかしらね?レコードやテープでアナログなら感覚的に捉えやすいのだけど、デジタルでストレージからデコードと言われると、時間間隔はどうなってるの?と直感的に思う。

アニメみたく、瞬間瞬間の止め絵をパラパラと高速で流しているのかしらね?アナログなフィルムだって実際は、静止画を連続表示しているのだし。
オーディオ系でいうサンプリング周波数という言葉はいくらかしっくりくる。
音はそもそも時間軸に乗った波だから、聴覚に時間はあるが、視覚には時間はない。
4Kとか8Kで画面上での画素数というか解像度だから(画素数は数で、解像度はがその密度だから次元としては違う言葉です)、時間軸に関する解像度?じゃないよね?
素数の単位はpixelとかdot
解像度はdpi(dots per inch)とかppi(pixels per inch)
時間軸の解像度?フレームレート、画像のサンプリング周波数のようなものはfps(frames per second)
解像度という数字だけにこだわるのなら…小さい画面で見た方が解像度としては上がる。
たとえば、50インチと15インチのテレビで比べるとする。画面のサイズとしては、50/15だから約3.3倍である。
よく4Kとか言うのは画面の横方向の画素数が4Kつまり4,000(一般に3,840らしい。UHD "Ultra High Definition")
いわゆるワイドテレビの画角は16:9。画面のインチサイズというのは対角線の長さなので、昔ならったピタゴラスの定理によると、対角線の長さを画素数で書くのであれば、16の自乗と9の自乗の和の平方根なので18.357…だから、逆算すると、50インチのテレビの横長さは43.578インチ
3,840画素が43.578インチに並んでいるのだから約88dpi。それが15インチになれば3.3倍だから290dpiになるから解像度は高い。

但し、画面は小さくなるから、写っているもののリアルサイズというか肉眼で見た時の大きさと比べると小さく見えてしまうのだけど。
きっとデコードするプロセッサだかプロセスのスペックが、いつかリアルタイムを追い越して…時間も越える…なんてことはない。
たぶん、しばらくは、めっちゃキレイな8K画像の紙芝居になるのだろう。それがいつかパラパラマンガになりアニメーションになる時まで。
そこまで細かくなった頃は、こちらの目が悪くなっていて、ぼんやりと観るだけかもしれないのだ。

 

セクハラについて考える

何処ぞの男性マネージャーが、部下の派遣社員の女性を飲み会に誘い、何度か来てくれたから好意があると思って、膝に手を置いたり、迫ったりして懲戒処分という話題があった。

それを聞いて「何度も飲みに誘われて行ったら、誤解されても仕方がない。その男性もある意味可哀想」という意見の人がいて、あらら。
いや、実際の事件の詳細な背景や経緯は知らないのだけど…
思考実験として、例えば、中年マネージャーがゲイとして、部下の若手男性社員に、同様な行為に及んだと考えれば、みんな、容易にセクハラだと言うのではないか?
若手男子は上司の仕事振りを尊敬していたかもしれないとしても、その男子はゲイではないし、上司に対する好意は、良くて敬意、もしくは上司への儀礼であって、いわゆる恋愛感情的な好意は一切ないのだとしたら。
それでも、まだ、多様性とかダイバーシティとか言う人でも、私の喩えは、「ゲイを気持ち悪いものとしていて不適切だ」というお門違いな批判をされるかもしれない。
管理部門からの戒めのお達しが「40,50の中年男性に、そんな魅力はありません」だったと、半ば笑い話のように伝えられたが、妙な目くじらを立てるなら、それも中年男子差別である。
雑な言い方をすると、思考も手順も不適切だったのであろであろう。

生産性向上について考える


最近、「生産性向上」という単語がよく使われます。言葉からすると、何かの効率だと思われます。効率なので何かを何かで割ったはずで、何打数何安打な打率みたいのとか、単位時間あたりの生産高とか、コストパフォーマンスとか、売り上げに対する利益率とかとか…
「効率重視」という人は、大概、打率とか時間あたり生産高を言っているようです。
同じ時間かけて、質の高いものを作ることは、あまり問われてない気がします。「品質向上」といっても大概は大量生産の際の不良率を下げる話が多い気がします。
取り敢えず、私は8時間定時勤務の月給制の人です。単純に生産性向上をしても、早く帰れるわけでも、給料が上がるわけでもないので、8時間の基本は待機任務として、「いざ!」って時に良いパフォーマンスを出せれば良いな程度に最近思います。

褒められたと名誉だったり、自己満足をやり甲斐にはできません。

そういう瞬間が何度でもあれば、打席数も増えるので打率が悪くてもヒットが増えるのではないかと思うのです。とすると、失敗のコストを安くするのも大事ですね。ま、早めに失敗するのが吉。もしくは、失敗と言わず「うまく行かないということが分かった。成果があった」と言い張るか。そか、試行錯誤という単語が、そもそも自虐的なんだな。「試す」とか「誤る」とか。

なんで、みんな、そんなに、成功を求め、失敗を恐れるのか。成功を目指すのはよいけど、結果はやった後に、自ずとついてくるものでしょ。

字幕の見方 視覚と聴覚と運動と言語について

私は海外の映画は、基本的に字幕版で観る。
他の言語よりも圧倒的に日本語の方が得意なので、吹替版の方が台詞がすんなり入ってきそうではあるが、それは翻訳だからであって、元の台詞ではない。
私は字幕版で見る時も、字幕は視界の端の方で捉えるようにして、凝視しないことにしている。日本語の文字だと凝視しなくても分かる。
しばしば「字幕を追うのに忙しくてストーリーが入ってこない。観てて疲れる」という方がいるのだが、会話劇でなければ、おおよそ観てればストーリーは分かるし、一字一句台詞を追わなくても良い。
上のような意見の方は、おそらく、「字幕を読む」人なのだと思う。さらに、黙読する時も、「心の中で発話」している可能性が高い。
逆に、例えば、英語のフレーズを想起しようとする時に、「無音或いは小声で口元が動く人」と「宙に指先でスペルを書き始める人」がいる。
日本語の文字が表意性が高いので、文章を見たら、おおよそ意味が分かる。表音文字系の方は、単語なりセンテンスの塊を捉えないと意味を掴めない。
たぶん、中国の人は、漢字の意味性があるので、文章を見れば分かるのだけど、話して伝えるのが難しいから発音に頼るのだろう。
話し言葉と書き言葉が、同じ意味を持つのは、極めて御約束的でかつ高度な脳内情報処理だと思われる。誰が今見た字をそう発音すると決めたというのだ。そう思うと、言葉が通じる。特に文字で伝わるというのは、随分特殊な訓練のたまものであろう。
映画の字幕の話に戻ると。私はDVDやBlu-rayで見る時、字幕を英語版にすることが多い。字幕は見れば分かるので、台詞の音声が耳から入りやすくなる。意味は字幕で取れたから、耳は音に専念できてるか、そう思って聞いてるからだろう。
こんな話をすると「英語の字幕なんて、目が追いつかない」としばしば言われるのだが、おそらく、そういう人の多くは、黙読でなくて読んでいるのである。
リーディングは視覚的な行為であり、リスニングは聴覚的な行為である。視覚には時間的感覚はない。写真のようなものだ。聴覚は特性上、時間とは切り離せない。だから読むのは聴くより早いはずである。
だが、黙読でなくて、無音なり小声なりで「音読する」人は少し事情が違う。「話す」ための脳の運動野を使ってしまったり、実際に口周りの筋肉を使ってしまったりする。運動は聴覚よりもさらに時間を要する。
書き言葉を読むのより書くことの方が脳内処理や筋肉への神経刺激の伝達とかで忙しいはずである。だから手書きよりタイピングやワープロの方が速かったりする。
カラオケの歌詞の字幕は時間順に追うような構造になっている。映画の字幕は瞬間である。カラオケの字幕は発声が前提である。あぁ、みんなカラオケ慣れし過ぎてるのだな。と一人で納得してみる。