字幕の見方 視覚と聴覚と運動と言語について

私は海外の映画は、基本的に字幕版で観る。
他の言語よりも圧倒的に日本語の方が得意なので、吹替版の方が台詞がすんなり入ってきそうではあるが、それは翻訳だからであって、元の台詞ではない。
私は字幕版で見る時も、字幕は視界の端の方で捉えるようにして、凝視しないことにしている。日本語の文字だと凝視しなくても分かる。
しばしば「字幕を追うのに忙しくてストーリーが入ってこない。観てて疲れる」という方がいるのだが、会話劇でなければ、おおよそ観てればストーリーは分かるし、一字一句台詞を追わなくても良い。
上のような意見の方は、おそらく、「字幕を読む」人なのだと思う。さらに、黙読する時も、「心の中で発話」している可能性が高い。
逆に、例えば、英語のフレーズを想起しようとする時に、「無音或いは小声で口元が動く人」と「宙に指先でスペルを書き始める人」がいる。
日本語の文字が表意性が高いので、文章を見たら、おおよそ意味が分かる。表音文字系の方は、単語なりセンテンスの塊を捉えないと意味を掴めない。
たぶん、中国の人は、漢字の意味性があるので、文章を見れば分かるのだけど、話して伝えるのが難しいから発音に頼るのだろう。
話し言葉と書き言葉が、同じ意味を持つのは、極めて御約束的でかつ高度な脳内情報処理だと思われる。誰が今見た字をそう発音すると決めたというのだ。そう思うと、言葉が通じる。特に文字で伝わるというのは、随分特殊な訓練のたまものであろう。
映画の字幕の話に戻ると。私はDVDやBlu-rayで見る時、字幕を英語版にすることが多い。字幕は見れば分かるので、台詞の音声が耳から入りやすくなる。意味は字幕で取れたから、耳は音に専念できてるか、そう思って聞いてるからだろう。
こんな話をすると「英語の字幕なんて、目が追いつかない」としばしば言われるのだが、おそらく、そういう人の多くは、黙読でなくて読んでいるのである。
リーディングは視覚的な行為であり、リスニングは聴覚的な行為である。視覚には時間的感覚はない。写真のようなものだ。聴覚は特性上、時間とは切り離せない。だから読むのは聴くより早いはずである。
だが、黙読でなくて、無音なり小声なりで「音読する」人は少し事情が違う。「話す」ための脳の運動野を使ってしまったり、実際に口周りの筋肉を使ってしまったりする。運動は聴覚よりもさらに時間を要する。
書き言葉を読むのより書くことの方が脳内処理や筋肉への神経刺激の伝達とかで忙しいはずである。だから手書きよりタイピングやワープロの方が速かったりする。
カラオケの歌詞の字幕は時間順に追うような構造になっている。映画の字幕は瞬間である。カラオケの字幕は発声が前提である。あぁ、みんなカラオケ慣れし過ぎてるのだな。と一人で納得してみる。