よくなくない?


「よくなくない?」

「ブギーバックかよ!」「スチャダラかよ!」という声が聞こえる気がするが…
私は「悪くはないよね。てか、いいよね」的なニュアンスで捉えていたように思う。実際に使った記憶はない。

大学生の時に、「それで問題ないんじゃないでしょうか」と言ったら、中国からの留学生に「それは、『問題ある』ですか?『問題ない』ですか?」と問いただされた記憶がある。

「ない」=否定でなくて、「なかかろうか」的な推測の意味合いとでも言えばよくなくない?
私は言語学の専門家ではない。

似たような言葉で「ない」が含まれているが否定ではなさそうな言葉がなくはない。

『「とんでもございません」という言葉はありません』

御丁寧に言い換えたつもりなのかもしれないが、「とんでもない」は一つの言葉なので、敢えて言うなら「とんでもないことでございます」になる。
(「とんでもない」の語源については実は知らない)

たとえば…

「もったいない」も、「もったいある」とは言わないから、もったいございませんとは言えない。「もったいをつける」とは言う。「勿体」ってなんだ?
「こころもとない」も「こころもとある」とは言わない。「心許」って?
「めっそうもない」も「めっそうもある」とは言わない。「滅相」て、なんかかなり悲惨な字面だ。
「めんぼくない」も「めんぼくある」とは言わない。「面目を保つ」とは言う。
「なんでもない」の反対のつもりで「なんでもある」と言ってしまっては、その反対は「なんにもない」である。
「みもふたもない」とは言うが、「みもふたもある」という言い方は、それこそ「身も蓋もない」
「だらしない」と言うと、あからさまに、はなはだしく、乱れてる感があるが、「だらしがある」とは言わない。
「しどけない」は、だらしないのか?アンニュイなのか分からないが「しどけある」とは言わない。

「ありえる」と「なくはない」だと、どちらが可能性が高いであろうか?「ありえる」の方が高い気がする

あれ、チャウチャウちゃう?
え?チャウチャウちゃうんちゃう?

 

うちから徒歩で


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特定の時間で何処まで行けるのかというのを地図上にプロットしたものをアイソクローンマップ「等時間地図」というそうです。

休みの日は歩け歩け活動をするアルキストとしては気になるので

うちから歩いて

 

左上:30分
30分では多摩川を渡れない。等々力緑地公園はギリギリ届かない
田園都市線梶が谷二子新地

南武線武蔵溝ノ口武蔵中原

 

右上:1時間
田園都市線:宮崎台~用賀

南武線:久地~武蔵小杉

東横線:元住吉~新丸子
砧公園や多摩川浅間神社はギリギリ

 

左下:2時間
小田急線:読売ランド前~世田谷代田

田園都市線:江田~三軒茶屋

南武線:中野島~尻手

東横線菊名~学芸大学
新横浜までも行けるのね

 

右下:3時間
稲城三鷹・新宿・渋谷・品川

 

 

4Kとか8Kとか

動画の圧縮というかコーデックって、どういう理屈なのかしらね?レコードやテープでアナログなら感覚的に捉えやすいのだけど、デジタルでストレージからデコードと言われると、時間間隔はどうなってるの?と直感的に思う。

アニメみたく、瞬間瞬間の止め絵をパラパラと高速で流しているのかしらね?アナログなフィルムだって実際は、静止画を連続表示しているのだし。
オーディオ系でいうサンプリング周波数という言葉はいくらかしっくりくる。
音はそもそも時間軸に乗った波だから、聴覚に時間はあるが、視覚には時間はない。
4Kとか8Kで画面上での画素数というか解像度だから(画素数は数で、解像度はがその密度だから次元としては違う言葉です)、時間軸に関する解像度?じゃないよね?
素数の単位はpixelとかdot
解像度はdpi(dots per inch)とかppi(pixels per inch)
時間軸の解像度?フレームレート、画像のサンプリング周波数のようなものはfps(frames per second)
解像度という数字だけにこだわるのなら…小さい画面で見た方が解像度としては上がる。
たとえば、50インチと15インチのテレビで比べるとする。画面のサイズとしては、50/15だから約3.3倍である。
よく4Kとか言うのは画面の横方向の画素数が4Kつまり4,000(一般に3,840らしい。UHD "Ultra High Definition")
いわゆるワイドテレビの画角は16:9。画面のインチサイズというのは対角線の長さなので、昔ならったピタゴラスの定理によると、対角線の長さを画素数で書くのであれば、16の自乗と9の自乗の和の平方根なので18.357…だから、逆算すると、50インチのテレビの横長さは43.578インチ
3,840画素が43.578インチに並んでいるのだから約88dpi。それが15インチになれば3.3倍だから290dpiになるから解像度は高い。

但し、画面は小さくなるから、写っているもののリアルサイズというか肉眼で見た時の大きさと比べると小さく見えてしまうのだけど。
きっとデコードするプロセッサだかプロセスのスペックが、いつかリアルタイムを追い越して…時間も越える…なんてことはない。
たぶん、しばらくは、めっちゃキレイな8K画像の紙芝居になるのだろう。それがいつかパラパラマンガになりアニメーションになる時まで。
そこまで細かくなった頃は、こちらの目が悪くなっていて、ぼんやりと観るだけかもしれないのだ。

 

セクハラについて考える

何処ぞの男性マネージャーが、部下の派遣社員の女性を飲み会に誘い、何度か来てくれたから好意があると思って、膝に手を置いたり、迫ったりして懲戒処分という話題があった。

それを聞いて「何度も飲みに誘われて行ったら、誤解されても仕方がない。その男性もある意味可哀想」という意見の人がいて、あらら。
いや、実際の事件の詳細な背景や経緯は知らないのだけど…
思考実験として、例えば、中年マネージャーがゲイとして、部下の若手男性社員に、同様な行為に及んだと考えれば、みんな、容易にセクハラだと言うのではないか?
若手男子は上司の仕事振りを尊敬していたかもしれないとしても、その男子はゲイではないし、上司に対する好意は、良くて敬意、もしくは上司への儀礼であって、いわゆる恋愛感情的な好意は一切ないのだとしたら。
それでも、まだ、多様性とかダイバーシティとか言う人でも、私の喩えは、「ゲイを気持ち悪いものとしていて不適切だ」というお門違いな批判をされるかもしれない。
管理部門からの戒めのお達しが「40,50の中年男性に、そんな魅力はありません」だったと、半ば笑い話のように伝えられたが、妙な目くじらを立てるなら、それも中年男子差別である。
雑な言い方をすると、思考も手順も不適切だったのであろであろう。

生産性向上について考える


最近、「生産性向上」という単語がよく使われます。言葉からすると、何かの効率だと思われます。効率なので何かを何かで割ったはずで、何打数何安打な打率みたいのとか、単位時間あたりの生産高とか、コストパフォーマンスとか、売り上げに対する利益率とかとか…
「効率重視」という人は、大概、打率とか時間あたり生産高を言っているようです。
同じ時間かけて、質の高いものを作ることは、あまり問われてない気がします。「品質向上」といっても大概は大量生産の際の不良率を下げる話が多い気がします。
取り敢えず、私は8時間定時勤務の月給制の人です。単純に生産性向上をしても、早く帰れるわけでも、給料が上がるわけでもないので、8時間の基本は待機任務として、「いざ!」って時に良いパフォーマンスを出せれば良いな程度に最近思います。

褒められたと名誉だったり、自己満足をやり甲斐にはできません。

そういう瞬間が何度でもあれば、打席数も増えるので打率が悪くてもヒットが増えるのではないかと思うのです。とすると、失敗のコストを安くするのも大事ですね。ま、早めに失敗するのが吉。もしくは、失敗と言わず「うまく行かないということが分かった。成果があった」と言い張るか。そか、試行錯誤という単語が、そもそも自虐的なんだな。「試す」とか「誤る」とか。

なんで、みんな、そんなに、成功を求め、失敗を恐れるのか。成功を目指すのはよいけど、結果はやった後に、自ずとついてくるものでしょ。

字幕の見方 視覚と聴覚と運動と言語について

私は海外の映画は、基本的に字幕版で観る。
他の言語よりも圧倒的に日本語の方が得意なので、吹替版の方が台詞がすんなり入ってきそうではあるが、それは翻訳だからであって、元の台詞ではない。
私は字幕版で見る時も、字幕は視界の端の方で捉えるようにして、凝視しないことにしている。日本語の文字だと凝視しなくても分かる。
しばしば「字幕を追うのに忙しくてストーリーが入ってこない。観てて疲れる」という方がいるのだが、会話劇でなければ、おおよそ観てればストーリーは分かるし、一字一句台詞を追わなくても良い。
上のような意見の方は、おそらく、「字幕を読む」人なのだと思う。さらに、黙読する時も、「心の中で発話」している可能性が高い。
逆に、例えば、英語のフレーズを想起しようとする時に、「無音或いは小声で口元が動く人」と「宙に指先でスペルを書き始める人」がいる。
日本語の文字が表意性が高いので、文章を見たら、おおよそ意味が分かる。表音文字系の方は、単語なりセンテンスの塊を捉えないと意味を掴めない。
たぶん、中国の人は、漢字の意味性があるので、文章を見れば分かるのだけど、話して伝えるのが難しいから発音に頼るのだろう。
話し言葉と書き言葉が、同じ意味を持つのは、極めて御約束的でかつ高度な脳内情報処理だと思われる。誰が今見た字をそう発音すると決めたというのだ。そう思うと、言葉が通じる。特に文字で伝わるというのは、随分特殊な訓練のたまものであろう。
映画の字幕の話に戻ると。私はDVDやBlu-rayで見る時、字幕を英語版にすることが多い。字幕は見れば分かるので、台詞の音声が耳から入りやすくなる。意味は字幕で取れたから、耳は音に専念できてるか、そう思って聞いてるからだろう。
こんな話をすると「英語の字幕なんて、目が追いつかない」としばしば言われるのだが、おそらく、そういう人の多くは、黙読でなくて読んでいるのである。
リーディングは視覚的な行為であり、リスニングは聴覚的な行為である。視覚には時間的感覚はない。写真のようなものだ。聴覚は特性上、時間とは切り離せない。だから読むのは聴くより早いはずである。
だが、黙読でなくて、無音なり小声なりで「音読する」人は少し事情が違う。「話す」ための脳の運動野を使ってしまったり、実際に口周りの筋肉を使ってしまったりする。運動は聴覚よりもさらに時間を要する。
書き言葉を読むのより書くことの方が脳内処理や筋肉への神経刺激の伝達とかで忙しいはずである。だから手書きよりタイピングやワープロの方が速かったりする。
カラオケの歌詞の字幕は時間順に追うような構造になっている。映画の字幕は瞬間である。カラオケの字幕は発声が前提である。あぁ、みんなカラオケ慣れし過ぎてるのだな。と一人で納得してみる。

アイデンティティについて考える


どうして、そう、アイデンティティに拘るのかね?

こだわらなくても、自分はそこにあるのではないのかね?

思わず、自分、と書いてしまったけど、「自ずと分かつ」わけだね。
分けるのだから、そこには、なんらかの区別なり差異が発生する
たしか、「自分」って諭吉さんがindividualの訳語としてあてがったんだっけ、あ、それは「個人」だ。
「人格」は"person"の翻訳語らしい。
アイデンティティは比較的新しく日本語になったから、カタカナのままなのじゃないかな。

in+divid+ual 分けられない
person 仮面
iden+t+ity 同一性

日本は欧米と比べると解離性同一性障害、いわゆる多重人格の例は少ないと聞く
意識的に「人格」の確立を図ろうとしないから、自分を構成する要素が、一つの独立した人格となることが少ないのかもしれない。
比較的、個人よりも、集団・組織の一員としての自分「自らの分」「分相応」を重視する文化があるから「個性」を発揮するのを良しとしない文化・慣習があるからかもしれない。

完全に個性的になった場合、それは他人に理解不能になる。統合失調症(かつての精神分裂病)の症状に近いと聞く。

「変わってますね」と言うのを、まろやかに伝える言葉として、お約束の言葉に「ユニークですね」というのがある。
un+ique 唯一
相手はこちらを分かって「ユニーク」と言ってるのだか、分からないから「ユニーク」と言ってるんだか

♪ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン♪

アイデンティティと言う言葉、モチベーションとかモラトリアムと同じくらい最近日本に流入した言葉だと思う。私の感覚だと、ここ30年くらい。
アイデンティティ(自己同一性)という概念は発達心理学者で精神分析家のエリクソンが提唱したものだ。1959年に出版された著書には表記があるそうだ。
モラトリアム(猶予期間)も心理学上はエリクソンの提唱だから同時期であろう。
モチベーションは「動機付け」「やる気」と訳されることもあるが、なんかちょっと違うからカタカナのままなのだろう。私が初めて聞いたのは確か、F1中継だったように思う。何か他のプロスポーツだったかもしれない。たぶん1990年代である。

少し、生物学や心理学をかじれば、変わらない自分というものはないことが分かる。生きていくのは変わることだからである。「ゆく川の流れは絶えずして、しかしてもとの水にあらず」「諸行無常」である。変わっていることを相変わらず自分であると決めるのは、おそらく脳の癖である。脳そのものには故意も悪気もなかったかもしれない。自分があることにしないと、自分があやふやになって存亡の危機になるからであろう。

何故意識が発生したのかは専門家の研究でも定かでないらしいし、世間で話題のAIが学習を重ねていくうちに、いずれ意思を持つのではないかと思うのも当然かもしれない。私たちも赤ん坊の頃の意識は定かでないが生きていたのは間違いない。

世界には「我々」という単語はあっても「私」という単語を持たない民族もあると聞く。英語だって二人称は単数でも複数でもyouである。
他人ではないものが私なのか。私でないものが他人なのか。突如、その境界にATフィールドが発生したのか

私が知覚する世界には二人称の私も、三人称の私もいない。文明の力で、鏡であったり、カメラ、ビデオなどで、自分の姿を見ることは可能であるが、それを私たちは、肉眼で直接見たこともないのに、「これは私だ」と思う。なるほど、器としての身体は、確かにそこに見ることができる。だが、私を私という意識はどこにあるのか。現代は科学的な見方が浸透しているので、意識は脳の機能だと言われている。機能であり構造ではないから、心を単体で取り出すことは出来ない。行動なり文字なり発話なり絵画なり、何かしらの表現を介してしか分からない。介しても分からない。分かる部分は誰にでもある部分だから分かるのである。いわゆる共同幻想や元型に近い。

つまり、アイデンティティは、個人そのものでなく、属性・ラベル・レッテルであるから、当然、分ける。そこに優劣をつけるから差別的になるのである。
頭の良い人は、偏差値的に見れば、ある意味、外れ値であるから、知恵進み障碍というか知能異常と言っても差支えない(差し障りはある)。
カッコイイ人やカワイイ人は、レアであるから、マイノリティである。それが遺伝的に優位であるなら、世界中のブス・ブサイクどころか、いわゆるふつうの人々さえ絶滅しているはずである(乱暴だな)。カッコイイ人やカワイイ人は、実は別の惑星から来たカッコイイ星人やカワイイ星人で、種族を保つために、先住人類と交わり、シレッと生きているのかもしれないのである。そんな御先祖の企みを知らないから、今に生きているカッコイイ人やカワイイ人は自分たちは普通の人類だと思っているのかもしれない。その逆かもしれない。

かなり話が逸れた。アイデンティティという単語がどこかSFチックで、音の響きがコミカルなので、ついそんな想像をしてしまうのだ。