ジェンダーについて考える

先日、アメリカでXジェンダーを自認する学生が、ナイフを持って「殺せ」とか言いながら警官に近付き、射殺されたというニュースを、はてなブックマークで取り上げたら、思いの外、大勢の方から、はてなスターをいただいた。

記事を見る限り、その人のジェンダーアイデンティティと、その事件は直接的な因果はないように思える。

いわゆるLGBT(Q or X)というカテゴリーを認めることで、本人の自認や社会的処遇が安定を目指す。多少、今はデモンストレーションかキャンペーンなのか?というきらいはある。活動に熱心な人の方が、そういうアイデンティティやスタンスを確固として持っているのかと思ったが、よく考えてる分、揺らぐところもあるのかもしれない。

ただ、行動だけから見る限り、精神的に不安定な人が、正常とは言い難い発言や行動をしたように見えるので(もちろん、警官が射殺という行為を取ったと云うのは、別に議論される問題ではある)ジェンダーアイデンティティと精神の安定に、少なからず因果はあったのだろうが、この事件の本筋ではないと思う。

前置きが長くなった。


純然と身体的性別はある。人間は両性生殖の動物であるからだ。その限り(インターセックスな人もいるのだろうが)において、可能であるならば、それに沿ったジェンダーアイデンティティを持っていた方が、生きやすいのだろうな。と思う。

それに多くの人、敢えて言うなら、マジョリティの人々は恙無く暮らしているのだろう。

だけど、それにしても、そこで安易に性別を優劣に結び付けてはいけないし。社会的文化的なバイアスによる圧力があってもいけない。

違いをただ認めさえすれば良いのだ。

ただ、往々にして、マッチョでマスキュリンな男性や、フェミニンでレディライクな女性の、一部の「保守的」な人は、その存在を認めず忌み嫌う人が少なからずいる。

理解ある風な人が、たまに、トイレを共用にしたり、お風呂を混浴にしたり、服装をユニセックスにしようとする、あるいは厳格にいわゆる男女とそれ以外に分けようとする。それは、世界制服計画であって、ジェンダーフリーではないし、ジェンダーアイデンティティへの寛容でもない。

二択の方が簡単なのは分かるが、クイズでも試験でもないのだ。男らしい男は、何故その行為や思考を男らしいと思えるのか。女らしい女もまた。経験上、その手の多くの人は「だって、そういうものでしょ。それがふつうでしょ」で済ます方が多い。残念である。