ジェンダーフリーについて考えた

最近、セクシャルマイノリティとかジェンダーフリーという言葉を、しばしば見かけるのだけど、ぼんやりというか、ごっちゃに使われてる気がするので考えてみた。
他にもあるかもしれないけれど、ちょっと考えても、下記のパラメーターがある。
身体的性別
自覚的性別
服装的指向
恋愛的指向
性的指向
それぞれに、無・男・女・両があるとすると、二進法的には、一つのパラメーターが2ビットの情報を持つので、併せると、これだけでも10ビットで表せるモードがあると考えられる。つまり2の10乗であるから、え〜と…1024通りあることになる。
まあ、およそ、ほとんどの人(敢えて言うなら、セクシャルマジョリティ)の人は、身体的自覚的性別は一致しており、服装はそれに準じ、恋愛的・性的指向については、異性が対象になることになっている。
多少のズレがあっても、躾けとか教育とか文化で抑圧しているのだろう。
ジェンダーフリーという考え方は、語る人によって、多少、趣きも温度も違うのだけど、こういう枠組みというか足枷なり色眼鏡のようなものを外そうという思想なのだと思うのだ。
謎に博愛なフリーセックスじゃ、怪しい宗教みたいになってしまうし、お風呂はなんでも混浴が良い訳はないし、通勤電車の女性専用車両に異を唱えるものでもない。
その車両にレズな痴女の方が居たらどうするのだ?という思考実験は容易に想像がつくがレアなのだろう。普通車両でホモな痴漢に遭遇したことないし。
というか、私が思うに、満員通勤電車に乗れる人はマゾか不感症である。その割に乗り降りの瞬間はサディスティックであると思う。
話が逸れかかっている。フリーとは自由だからと何でもありというわけじゃなくて、枠に捕らわれない、枠で捉えないということではないか?勿論、フレームはモノを捉える上で有効な手法であるし、捉えて区別するからこその枠であるのは自明である。
たまに、茶化して「誰でも好きになっちゃう人でしょ」的に言う方がいるが、色んな人がいるのを認めることと、誰でも好きになることは違う。
少し考えてみたら分かる。好きでもない人に言い寄られるのは、ほぼおおよそ(ホントに誰でも好きになれちゃう人以外)の人々は嫌なはずである。